尾久本土初空襲調査記録

尾久初空襲とは

1942年4月18日、日本本土で初めて荒川区尾久町に米軍の爆弾が落とされた。ドーリットル空襲の初弾である。4ヶ月前の1941年12月8日、日本軍は、真珠湾攻撃を行った。しばらくの間、日本は連戦連勝で、アメリカ大統領ルーズベルトはこの日本軍の勢いを東京を奇襲することによってアメリカ国民を鼓舞しようとしたのである。
様々な検討が行われ、海軍の空母の甲板から、陸軍戦闘機が飛び立ち、東京を襲い、中国の内陸部の飛行場にたどり着くと言う奇想天外な計画が決まった。隊長に選ばれたのは、名飛行士として名前を轟かしていたドーリットル空軍少佐。24機の双発機B25が用意された。5人乗りの中型爆撃機である。
3ヶ月間の極秘任務という募集がかけられ、大勢の若者が結集。厳しい訓練を経て、80人が選ばれ、16機が空母ホーネットの艦上に並んだ。

ドーリットルの覚書(1942年2月)によると
この特別作戦計画の目的は、日本の工業中心地帯に、爆弾及び焼夷弾の投下攻撃を加えることにあります。
この作戦により、敵に混乱を生じさせ、生産を阻害するのみならず、敵はおそらく本土防衛のため、各戦線から部隊を引き上げるでありましょうから、我が方の各戦線における作戦が容易になる事は明らかでありましょう。この種の行動は、アメリカ国民及び連合軍及び敵国に与える心理的な効果を考えると、現在決行するのが最も効果的と思われます。
現在考えられている作戦は、爆撃機を積載した航空母艦を、日本の海岸から640から800キロ以内に進出せしめることであります。方向は南南東が最も望ましい。そこから爆撃機を発艦せしめ、直接攻撃目標に向かわしめるのであります。これらの目標は、東京、横浜、名古屋及び大阪、神戸方面の軍事及び生産施設に絞りました。

空母エンタープライズの航海日誌によると
ホーネット艦上のB25 16機の飛行隊指揮者ドーリットル中佐とは前もって日没時に東京上空に到着できる時刻に、犬吠埼の東約720キロの地点で一気を発信させる計画が打ち合わせてあった。他の飛行機は東京を夜間攻撃するよう、現地の日没時に発信する予定であった。しかし、艦隊が発見された場合は、全機直ちに発進することも考えられていた。もし犬吠埼から870キロの地点からの発進であれば、予定目的地への到着の可能性は薄い。またもし1200キロ離れた地点からの発進であれば、到着予定地玉山へは計算によると到着不可能であった。これらの要素を全て考慮した上で、先刻の哨戒艇艦隊により艦隊の位置が、敵側に報告されたことを考えに入れて、ハルゼイ提督は、飛行機に出発命令を下した。

出典 東京初空襲 アメリカ特攻作戦の記録 キャロル・V・グラインズ 彩流社 

日本は本土海岸から1100キロないし、1300キロの海上に多数の漁船を配置していた。日東丸が、4月17日最初にアメリカの艦隊が日本に向かって航行していると報告した。その報告を受けて木更津から飛び立った飛行機の中の一機が、海上1100キロの地点において、反対方向に飛んでいく双発の基地飛行機を見かけた、との報告をしたが、アメリカ艦隊空母には、双発機は積載されていないことがわかっていたことから、この報告は信用されなかった。その後も木更津から偵察飛行隊が飛び立ったが、ハルゼイの艦隊は前線の雲に包まれていて、発見される事はなかったのである。
 ドーリットルの離艦は1番近い陸地である犬吠岬に到着するまでに、1150キロ、1時間後の最後のB25は1110キロあったと記録が残っている。

アメリカ艦隊は、日本の漁船3隻を爆撃し、5名の漁師を捕虜にした。その捕虜の人生を巡る物語が荒川区出身の小説家、吉村昭が「背中の勲章」として小説にしている。中学3年生の吉村昭は住んでいた日暮里の実家の物干し台から1番機であるドーリットル隊長機を目撃した。凧揚げをして遊んでいたら、低空で双発機が飛んできてアメリカ軍だとわかったので驚いた、兵士のスカーフのオレンジ色が鮮やかに見えたとしている。

32年前の新聞記事は「もう一つの東京空襲」と記していて、熊野土地区画整理組合長遠藤栄さん宅にあった石碑の当時をしのぶ事ができる写真が掲載されている。この若者は、都立尾久の原公園ビオトープの生みの親であり、荒川グリーンエイド・フォーラム初代代表であった野村圭佑さんの薫陶を受けた若者で、私も、野村圭佑さんに連れられて、子連れで遠藤宅に石碑を見に行った事がある。そして私が1998年秋、翌年区議会議員選挙の立候補の挨拶に行った時、この歴史を地域史として大事にするようにと言われたのだった。

私は区議になってから初空襲の体験者を探すために、区の広報ビデオで紹介されていた被弾地(3発目が落ちた場所だとその後判明)の尾久八丁目町会で聞き取りを行ったが、初空襲を体験した人にも見た人にも出会えなかった。しかし、鈴木元一さんから「尾久附近空襲状況 吉田警部補」のコピーをもらうことができた。
さらに尾久橋たもとで慰霊のつどいを開催して、体験者を探すことにして「尾久初空襲慰霊のつどい」と墨書きしたポスターを町会掲示板に貼らしてもらったのである。

これが、尾久初空襲という言葉が生まれた経過である。葛飾や早稲田の被害はすでに本にもなっていたが、尾久の被害を調べた本はなかったのである。

ドーリットル隊16機(80人)のうち、13機が東京、神奈川、3機は名古屋、神戸を攻撃し、中国大陸内部の飛行場を目指した(1機は燃料不足でウラジオストックに向かった)のであった。

私と尾久初空襲との関わりを記しておく。
1990年頃
下町みどりのなかまたち代表の野村圭佑さんに誘われ、遠藤さん宅の石碑を見学。
1998年
野村圭佑さんに区議会議員立候補の挨拶に行った時、尾久の原の保全活動と尾久が本土初空襲を受けた地であることを広めてほしいと依頼を受け、選挙活動にイラストを使って良いと許可をもらった。

尾久初空襲と私
私に尾久初空襲を教えてくれたのは今は亡き野村圭佑さんだった。都内初のビオトープ(多様な生物が生息できる環境条件を備える空間)として、はらっぱとも称される都立尾久の原公園を実現した自然保護活動家として有名で、国や都の審議会委員を務めていた。
 26年前、荒川区立保育園父母の会連絡会の会長を務めていた私は、子連れで野村さんの下町みどりの仲間たちの活動や自然観察会に参加していた。17年前、区議会議員に立候補のあいさつに行った時、「尾久の原の保全と尾久初空襲の伝承に取り組んでほしい」といわれ、玄人はだしの植物画を描く野村さんのイラストを選挙リーフレットに使うことを許していただいたのだった。(都立尾久の原公園の保全のために立ち上げた尾久の原愛好会は今も自然観察会を月1回程度行っている)
 当選後すぐの一般質問で、早速、区に市民参加の平和展を行うよう提案したが、「その予定はない」との回答、、、
 そこで、3月10日の東京大空襲の前後に荒川国際平和展を開催し(実行委員会主催)、尾久初空襲にまつわる調査を行い、展示した。第一回荒川国際平和展は海老名香葉子さんの講演と東京荒川少年少女合唱隊の公演であった。また、初空襲が1942年4月18日であることにちなみ、その前後の日曜日に尾久橋のたもとで尾久初空襲被害者慰霊のつどいやイベントを行った。
 当時、尾久初空襲の復旧に関わった熊野土地区画整理組合の石碑が区の工事置き場に保管されていた。私は野村さんに連れられて30年前に組合長の遠藤栄さん宅の玄関前の石碑を見に行ったことがある。私が区議になった1999年には遠藤さんは老人ホームに入り、パチンコ関連会社に変わっていた。遠藤宅には、輪王寺の宮が泊まったという碑と初空襲の碑、二つの碑があり、近所の人が、教育委員会に碑を保存すべきではないかと問い合わせたが、史的価値がないといわれたそうだ。家の取り壊しの工事の際、尾久初空襲のみかげ石の碑は道路に打ち捨てられ、一部が割れてしまった。そこに通りかかった当時の道路課長が、工事置き場に保管したそうである。現在は、ふるさと資料館で保管されている。
 爆撃地付近で聞き取り調査を行い、鈴木元一さんから警察による「尾久付近空襲状況」をお借りし、コピーした。鈴木さんは、「遠藤宅の碑は戦後ずいぶんたってできたもので、内容もいい加減」と話し、石碑は地元住民からは無視されていた。
 2000年頃は、尾久に住む議員が「初空襲なんて聞いたことがない、うそだ」というくらい、隠されていたのである。
 当時、区が把握していた爆撃地は東尾久八丁目町会の一箇所だった。そこで、東尾久八丁目町会に慰霊の集いへの参加を呼びかけ、証言を集めようとしたが、戦争中から住んでいた人とは出会わなかった。しかし、尾久小卒業生が同級生で、神奈川に住んでいた被爆当時尾久小4年だった小宮一郎さんを紹介していただき、2箇所目を特定することができた。その場所が尾久橋町会内だったため、尾久橋町会にも呼びかけることにした。
 尾久橋町会長寿会から、毎年慰霊のつどいに参加していただいて〜初回2000年から参加されていたことを写真で確認済〜2008年、田村町会長が自宅の隣が爆心地であり、爆風で飛ばされた経験談を語ってくれた。語ることを禁じられた教えをずっと守っておられたのだった。ようやく三箇所目が特定できたのだった。
 そこから、町会として、尾久初空襲を語り継ぐ運動への取り組みが始まったのである。
 私たち、荒川国際平和展実行委員会は、3・10のイベントと4月の初空襲慰霊のつどいを毎年開催してきたが、10年目の節目である2009年に、爆心地に近い、ADEKA本社ホールで尾久初空襲を忘れないコンサートを企画した。このとき、尾久橋町会が町会内で開催するならばと町会が中心となっての開催となった。 その後、町会中心の実行委員会が毎年、首都大学ホール、サンパール荒川大ホール、尾久小体育館、尾久八幡中体育館を会場に、多くの人々が集う、「尾久初空襲を忘れないコンサート」を開催してきた。また、中学校の副読本に、中学生が町会長を訪ねて、空襲の話を聞くという設定で取り上げられた。
 そして、2016年は、校長先生の提案を受け、原中学校で、全校生徒と大門小6年、地域住民が参加して、公開授業が開催された。内容は、演劇部による副読本の朗読と尾久初空襲を語り継ぐ会による説明であった。翌年は第七中学校で開催すると発表され、毎年、尾久地域4校の中学校を巡回して尾久初空襲から戦争の悲惨さと平和の大切さを考える公開授業が開催されることになった。
 

①1989年4月18日新聞記事「ドゥリットル」の記録 後世に 

②2012年 
東京初空襲の地 史跡板 設置
教育委員会副読本掲載